「ファー・イーストに住む君へ」

----いわゆる,連作エッセイ? って感じでしょうか?   top   
-1- 1996年,川崎医科大学 研究ニュース 留学報告-i
-2- 1996年,川崎医科大学 研究ニュース 留学報告-ii
-3- 1996年9月 川崎医科大学附属病院 病院広報 「海外の医療事情」
-4- 1997年 冬 川崎学園便り「すずかけ」随筆
-5- 1997年 春 川崎医科大学附属病院 病院広報 「一冊の本」
-7- 1997年 夏 川崎医科大学 同窓会報 助教授就任の挨拶に代えて
-8- 1997年 秋 川崎医科大学 父兄会報 助教授就任の挨拶に代えて
-9- 1997年 秋 川崎学園便り「すずかけ」随筆
-10-(含:-6-) 1999年 初春 川崎医科大学衛生学教室 同門会誌


ファー・イーストに住む君へ   その3

Letter from Kurashiki, OKAYAMA (March, 1996 - present)

1992年4月から住んでいたMinneapolis, MINNESOTA からの手紙(ファー・イーストに住む君へ-1-),1993年6月から1996年3月まで楽しんでいた Rockville, MARYLAND からの手紙(ファー・イーストに住む君へ-2-),もう読んでくれたよね(もし届いていなかったら,川崎医科大学研究ニュース第48号,1996年9月発行にも載っているから読んでみてね).Everglades National Park で alligator に感心して,Hawaii でお魚と泳いで,そして免税店と成田では賀来千賀子と一緒になって,まだ寒さの残っていた日本に帰ってきてから,もう半年.あの時に,RockvilleからBethesda の National Cancer Institute へ,毎日のように始発の Metro に乗って通っていた頃に,心に決めたように今働けているのかどうか解らないけれど.実際の所は,不安と焦燥とちっぽけな希望とさらにちっぽけな悔恨とを醸成しながら,それでも毎日気持ちを奮い立たせて実験と講義に明け暮れているのだけれど.もう一度,僕自身のためにも読み直してみよう.・・・・・一杯沢山学んだような気がする.だけど漸く気が付いたんだ.ひょっとして問題はもう一度太平洋を西まわりしてからどれだけここで学んだ小さな芽を大きな花として咲かせ得るだろうかって事じゃないかって.お気楽なvisiting fellow / associate という立場が終った時,プロジェクトを自分の頭脳から紡ぎ出して行かなくてはならなくなった時,僕は自分を信じられるだろうかって.自分に鞭打って汗を流せるだろうかって.日々の重さと時の早さを乗り越えていつまでもゴ?ルを夢見て行けるだろうかって.辛いよね.でも,頑張らなくっちゃ.・・・・・

そうだった.アメリカでは本当にお気楽だった.夫婦2人と奥さんのおなかに4カ月目が一人で Minneapolis の空港に近付いたとき,眼下に拡がる大地には無数の銀灰色に鈍く光る様々な大きさの楕円形や丸い部分があって,それらが 10,000 lakes State と呼ばれる Minnesota の湖が凍っていたのだと気が付いたのは,妊娠中期の運動にと Minneapolis と St. Paul の真ん中辺りにある Lake Como の回りを2人半で歩き回っていた時だった.8月も後半になるとはち切れんばかりのおなかを抱えてそれでも Lake Como の隣の Zoo で白熊の水泳をよく見ていたよ.9月になって(予定日は時差のために一日ずれたけど)もう生まれるという頃になって,2人だけの不安を吹き消してくれるかのように,産科のスタッフは,自宅に居る方がいいから,より comfortable だからとなかなか入院させてはくれないし.そして同じ理由で,加えてアメリカの医療費はとっても高いから,入院は丸48 時間以内.奥さんは,歩けないに近い状態でアパートに帰ったんだ.まあ,分娩のために入院した部屋にあたりまえとして僕も付き添って,その部屋のまま出産.ユックンの産声に歓喜し奥さんの努力を称賛し,地球の反対側の両方の両親の初孫だからとカメラとビデオをフル回転させながら,長男誕生の喜びにひたっていたけどね.そういえば,アメリカのTVで日本では見られないCMは医療保険会社のものだよね.絵に描いたような幸せそうな3世代の一家団欒の図の後に,○× health insurance はあなたの家族の倖せを守ります,とかいうナレーションがはいったりして.だけど,例えその病院で働いていてもその病院が提携していない保険会社と契約していると診てもらえないというのは,やっぱり僕等には違和感があるよね.Minnesota の記憶は滞在15カ月の丁度真ん中で生まれたユックンに集約されてしまって,今になってみると他のことがあまり残ってないようにも思える.少し長めの新婚旅行って感じで,その後の Rockville の方が僕の感じたアメリカという気もするね.

移り住んだ Rockville は,Washington D.C. から地下鉄 Metro で30分くらい.郊外に出て地下鉄が地上を走る辺りになる.僕達は丁度僕の勤めた研究室に慶応から来ていた同期卒業のY先生がいたこともあって,日本人が,特に米国国立衛生研究所 (NIH) に勤める日本人が集まっているアパート群の中に一室を借りたんだ.当時は 300 人近くの日本人が NIH で働いていると云うことだったけれど,帰る頃は 150 人程度になっていたって話も聞いたよ.勿論いろいろな要因があったのだろうけれど,例えば丁度僕にとっての在米1年目の1992年に Clinton 政権となって(大統領選挙は本当にショービジネスの最高峰の国の中での最大級のショーという気がしたよ.党大会は全てのTVが一斉に生中継しているし,町行く車のほとんどは自分の応援する候補者のステッカーを貼っていて,雑誌やニュースも選挙一色と云う感じだった),それなりの締め付けもあったり,あるいは彼の政策の方針として米国内のいろんな意味での充実を第一義的に目標とするといった事の煽りもあって,例えば以前なら容易に認められていた J-1 visa の延長の許可がおり難くなったり,新しい(例え visiting という立場であっても)申請が受け入れ難くなったりと云うことも無いこともなかったみたい.僕も実際に J-1 の延長の許可がおりない事態に直面して supervisor と相談しながら O-1 visa の獲得に約半年間悪戦苦闘したりもしたんだ.といっても,Minnesota と違って日本人も沢山いたっていうのは,僕なんかは直接沢山の日本人と親しくしたほどではないけれど何処となく心強い印象はあったよね.また,奥さんは日本人の奥さん同志の趣味のグループに入れてもらって,所謂 American Craft works - Shadow Boxing とか Tole and Decorative Painting のレッスンを受けたり,滞在後期には車で30分くらいの Northern Virginia の Tole Painting の教室の集中講座に通ったりして,帰国前には National Society of Tole and Decorative Painters の会員になってしまったんだよ.むこうに来ていた日本人も本当にいろいろで,さっき書いたY先生は1994年に Philadelphia に移って今では滞米8年目に入っているんじゃないかな.同じ様に NIH の中でもう研究室を任せられてバリバリやっている先生方も何人かいたし,反対に1年くらいで順繰りに来ているような方々もいたし,LA に1年半留学していてその後日本に2年いて,また NIH に来たなんて人もいたよね.皆,自分なりにアメリカを楽しんで,あるいは文化の違いに戸惑って,それでも概ね期間の長短に関係無く,自分があるいは家族が異郷で過ごしている時間を,自分(達)の歴史の中にポジティブに構築して醗酵させようという気持ちで,日々の食を楽しみ,entertainments に浮かれ,週末の shopping に群がり,sports に興じ,research に没頭し,上司への不満を雑言し,vacation の計画を練り旅立ち,アメリカならではの歳時記を愛で(Easter の egg hunting - Independence day の fireworks - Trick or treat! の Halloween - Thanksgiving day の home dinner - Christmas / Holiday season の eventsdecoration - New Year Eve の喧噪),あるいは教育の違いに驚愕し嘆息して,誰のものでもない自分の吸ったアメリカの空気を濃縮抽出して再構成する努力をしていたように感じられたよ.

そうそう Rockville に移ってからはユックンの定期検診と予防摂取(タイ生まれで日本でM.D.を取ってアメリカに移住した Dr. Tann)と虫歯の治療(日系3世の Dr. Kuwabara)と僕の歯の治療くらいしか医療に係わっていないから,所謂,医療事情と云うのは漠然としかわからなかったなあ.困ったのはたまたま僕の入っていた医療保険は歯科治療をカバーしていなくって,帰国半年くらい前に2〜3箇所が悪くなったとき膨大な治療費を払わされたことで,本当にアメリカ生活唯一の哀しい出来事といっていいくらいだったよ.その時は,日大の歯学にいた中国人の先生(日本語も出来る)と所謂アメリカ人(origin は知らないけれど)とにかかったけれど,僕には日本語は通じなくてもアメリカ人の先生の方が患者として嬉しかったなあ.饒舌とまではいかないにしても彼等は自信たっぷりでスタッフも含めてとにかく明るい,説明も真摯に的確で,また自分の可能な範囲とそうでない範囲を確実にした上で紹介も円滑かつ迅速,東洋的な寡黙なあるいは言葉は悪いが尊大な態度より,極めて大きな安心と信頼を宿らせることが出来たように思う.今,僕自身は研究と教育に身を置く立場になったけれど,それでも医師の意志としてこの印象を忘れることなく生活態度に凝縮して行きたいと強く感じたのは疑いようもないところだったよ.

一緒に働いていた米・日・英・独・仏・印・加・洪・伯・ナイジェリアからの supervisor や fellow 達も,今では自国に帰ったり,違う研究所に移ったり,はたまた今もあそこで頑張っていたり,交点の記憶は極上の歓喜ではあっても,今はまだ人生を語れない世代の悲哀を越えて,将来の接点を憧憬することと,そこに至る豊熟を獲得するために,きっと誰もが熱望を努力の一粒一粒に変換していることを信じて,僕もまたラボに戻るよ.

 Enjoy your life!    Love your family!

そのうち,また手紙を書くからね .バイバイ.